渾身猫パンチ

書きたいときだけ息を吹き返す間欠泉

「追悼」ならまだしも違和感がなくて

  • 先月。いつものようにだらだらツイッターを眺めていたら「デヴィッド・ボウイ死去」という文章が目に飛び込んできて、なんだそれは?とぼんやりしたのだった。なんか、文法がおかしい気がした。
  • 断っておくと私はボウイのファンというような立場ではなく、いくつかすごい好きな曲がある、くらいの距離にいる。そんな距離ながら「デイヴィッド・ボウイというのはスペースオディティの楽曲を指す言葉であり、アラジンセインのアルバムジャケットを指す言葉であり、あるいはレッツダンスのちょっと恥ずかしいPVを指す言葉であって、『死去』という言葉がつく対象ではない」みたいなことをぼんやり考えた。「本能寺の変が死去」とか「ベルリンの壁崩壊が死去」とか、日本語としておかしいでしょう。そういうのと同じ、一回性のできごとを指す言葉なんだと思って。
  • そんなふうにぼんやりしながら、おそらくそのとき多くの人がしたように、発売されたばかりというアルバムのPVをYouTubeに見にいって、とても作り込まれた死の匂いと、同時に作り込むのに必要なだけの生命力を感じた。作品のなかにちゃんと死を置こうとしている人が見えたので、それで初めて「ああ、そういうことならおかしくはない」と思った。
  • 「今度のボウイは死である」なら自然な文章だなって。
  • それはそれとして、こんなことになってからいろいろな映像を見て、ずいぶん楽しそうに笑う人だったんだなと知ってしまったのは遅きに失したとしか言えないけれども。